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2025/06/17 20:07 |
ホーチミン市の歴史
ホーチミン市はプレイノコール(英: Prey Nokor、クメール語で「森の中の街」という意味)として知られる小さな漁村として出発した。今では市街地が広がっている一帯は、もともとは沼地であり、ベトナム人が16世紀後半か17世紀以降に入ってくる何世紀も前からクメール人が住んでいた。華僑も17世紀以降に現れた。明朝の滅亡(1662年)により、その遺臣ら約3000人が阮氏の保護でビエンホア(サイゴンの東方)やミトー(メコンデルタ入口)に入植する。
1623年、カンボジア王チェイ・チェッタ2世(英語版)(在位:1618年-1628年)は、鄭阮戦争(英語版)で阮主(英語版)から流出した難民にプレイノコール一帯で定住してその風習に沿った住居(en:Custom house)を建築することを許可した。ベトナム人定住者がみるみるうちに増えてゆくのを、タイランドとの戦争により弱体化したカンボジア王国は妨げることができず、この一帯はゆっくりとベトナム化していった。やがて、プレイノコールはサイゴンとして知られるようになった。
1698年、ベトナム人貴族であるグエン・フー・カイン(英語版)(阮有鏡)が、この一帯にベトナム人による統治機構を構築し、この一帯に干渉するほどの勢力を失ったカンボジアからこれを引き離すため、フエの阮氏の頭領によって送り込まれた。彼は大規模な定住によりサイゴンの拡大をもたらした人物としてしばしば賞賛されている。ザーディン城(英語版)(Thành Gia Định)と呼ばれた巨大なヴォーバン式星形要塞が築城されたが、1861年のチーホアの戦い(英語版)においてフランス人が破壊した。ホーチミン市は、この年を持って市の起源としている。ザーディンの名称はザーディン省として残った。
1859年にフランスによって占領され、1862年のサイゴン条約で阮朝はフランスによるコーチシナ東部の支配を認めた。その際にサイゴンは開港し、1887年に成立したフランス領インドシナのもとで急速に発展した。ベトナムがフランスにより植民地として占領されている間、この街はフランスの影響を受けた。そのことが、この街に数多くの古典的西洋風の建築に表れている。そのため、サイゴンは「極東の真珠」 (Hòn ngọc Viễn Đông) とか、「東洋のパリ」 (Paris Phương Đông) と呼ばれることも多い。なお、1873年に日本の岩倉使節団がサイゴンを市内見学しており、当時の安南国の様子が「米欧回覧実記」に記されている[2]。
1954年、フランス人は共産主義者のベトミンにディエンビエンフーの戦いで敗れ、ベトナムから撤退した。その後、サイゴンはバオ・ダイ帝が組織した政府の支配下に戻った。バオ・ダイは1950年にサイゴンを首都と定めた。その際、サイゴンと華人系ベトナム人の居住区域であったチョロン (Chợ Lớn) は、一つの行政単位として統合され、首都サイゴン(ベトナム語で Đô Thành Sài Gòn )と呼ばれることになった。1954年のジュネーヴ協定によりベトナムが公式に北ベトナム(ベトナム民主共和国)と南ベトナム(ベトナム共和国)に分断されると、アメリカ合衆国の影響下でゴ・ディン・ジエム大統領に率いられた南ベトナム政府は、引き続きサイゴンにその首都を置いた。
その後南ベトナム軍と北ベトナム軍の戦闘が国境地域から拡大した事を受けて、南ベトナム政府を支援するアメリカのジョン・F・ケネディ大統領は、1960年にアメリカ軍軍事顧問団の大量派兵を行う。その後の1965年のアメリカ正規軍の本格参戦によってベトナム戦争が本格化すると、サイゴンをはじめとする南ベトナムには大量のアメリカの軍事物資と資金が流れ込むが、その後南ベトナム解放戦線による一般人をも標的にしたテロ活動が活発になる。
1973年のアメリカ軍の全面撤退以降は徐々にベトナム共和国は劣勢に陥り、1975年4月30日にサイゴン市内に北ベトナム軍が進出し南ベトナム政府が崩壊しベトナム戦争が終結。この出来事は一般に、アメリカ合衆国では「サイゴン陥落」と呼ばれ、ベトナムでは「サイゴン解放」と呼ばれている。
その後サイゴンをはじめとする南ベトナムはベトナム人民軍の支配下に置かれ、社会主義化されると経済活動は停滞し、これを嫌う華僑を中心に難民が流出した。
1976年、共産主義の統一国家ベトナム社会主義共和国が成立したことにより、サイゴンの街(チョロンを含む)、ザーディン省及び近隣2州の郊外2地区が統合され、後の共産党指導者ホー・チ・ミンの名を冠したホーチミン市が作られた。このとき「ザーディン」の名称も消滅した。
今日でも、この街の都心部には広くて優雅な並木道が走り、歴史的なフランス植民地風の建物が並んでいて、町並みに彩りを添えている。この街の中心部で最も目立つ建築物といえば統一会堂 (Dinh Thống Nhất) 、市役所 (Uy ban Nhan dan Thanh pho) 、市営劇場 (Nha hat Thanh pho) 、中央郵便局 (Buu dien Thanh pho) 、革命博物館 (Bao tang Cach mang) 、国立銀行支店 (Ngan hang Nha nuoc) 、市人民法廷 (Toa an Nhan dan Thanh pho) 及びノートル・ダム大聖堂 (Nhà thờ Đức Bà) である。
ホーチミン市はベトナムで確固たる地位を占める華人の本拠地である。チョロンは、現在では6区、10区及び11区の一部と5区として知られる一帯であり、中華街となっている。1975年以前に南部ベトナムには120万人の華人が在住していたが、そのうち110万人はサイゴンに在住し、さらにそのうち70万人はチョロン在住であった。中越戦争前夜には華人が大量に難民として出国したため、チョロンの華人人口は1978年には10万人にまで減少した。[3] 在ベトナムの華人人口は1975年145万人から1987年28万人にまで減少している。[4] その後、ドイモイ政策が進むと帰国する者も増え、チョロンの華人人口は50万人以上に回復した。
人口は700万人を超え(住民登録者及び市外からの通勤者の合計)、ホーチミン市では公共インフラの必要性が急激に増大している。この必要性を満たすため、市当局と中央政府は新都心を開発する努力を始めている。最も目立った事業を2つ挙げるとすれば、2区の Thu Thiem 中心市街地と7区の Phu My Hung 新都心(サイゴン南部計画の一部)であり、日本人学校、サイゴン南部国際校(アメリカ人学校)、オーストラリアの王立メルボルン技術研究所、台湾人学校及び韓国人学校といった様々な国際学校が立地している。

参照:Wikipedia「ホーチミン市
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2013/12/10 15:07 | Comments(0) | ホーチミン市
ホーチミン市の市名
○創建期のクメール語名
ホーチミン市は、元来クメール人が居住しており、プレイノコールという地名で知られていた。プレイノコールとは「森の街」、或いは「森のある土地」を意味するクメール語{プレイ=森、ノコール(サンスクリット語のnagara に由来)=街、場所をそれぞれ意味する}である。プレイノコールという地名は、今日でもカンボジア人やメコン・デルタに居住する少数民族の低地クメール人によって用いられることがある。
○伝統的なベトナム語名
プレイノコールに北方からのベトナム人移民が定住するようになると、フランス人によって植民地化されるまでは、この土地のベトナム語名はザーディン(Gia Định、嘉定)だった。
・ベトナム語語源説
1862年、フランス人はこの公式な名前を捨て、「サイゴン」Sài Gònという呼称が一般的になっていたので、呼ぶことにした。ベトナム語のサイゴンという名前の由来には様々な議論があるが、その語源は次のように分析されている。 [要出典]正字法という観点からいえば、ベトナム語の名前である「サイゴン」は、Sài Gòn という具合に2音節に分けて書くものであるし、ベトナム語の伝統的な綴り方はそのようになっている。ところが、空白を省略したいためか西洋風に見せたいためか、都市名を SàiGòn や Sàigòn というように書く人もいる。
語源としてよく言われる[要出典]のは、Sài は中国語の借用語(漢字で柴、普通話での発音は chái)であり、意味は「柴、丸太、小枝、杭」である。Gòn は別の中国語の借用語(漢字で棍、普通話での発音は gùn)であり、意味は本来「棒、竿、樹木の幹」であるが、ベトナム語では「綿」を意味する(bông gòn、文字通りにいえば「綿の棒」、つまりは「綿花」を意味する言葉が縮まって gòn になった)。
こういう説もある。つまり、この名前はクメール人がプレイノコール周辺で栽培していて、今でもCây Mai寺やその周辺で見ることができる沢山の綿花に由来しているというのである。
Trương Vĩnh Ký(張永記)著「サイゴン周辺で見つけた歴史の置き土産」、『旅行と偵察』所収、Imprimerie Coloniale、1885年サイゴン刊
別の説によると、サイゴンの語源的な意味は「小枝 = Sài」と「幹 = Gòn」であり、クメール語名のプレイノコールの由来にもなった、かつてこの街の周囲にあった背の高い木々が密集した森に因むという。
語源的にはベトナム語の Sài Gòn という呼称は(その説が正しいと一応考えるとして)中国語の名前に由来すると言われているにも関わらず、ベトナムでも中国でも、華人は柴棍(広東語の発音は Chaai-Gwan、普通話の発音は Cháigùn)という呼称は使わない。華人はこの街を西貢(広東語の発音は Sai-Gung、普通話の発音は Xīgòng)と呼ぶ。これは「サイゴン」の単なる音訳に過ぎない。
・クメール語語源説
別の語源としてしばしば主張されるのが「サイゴン」で“Sai Con”(クメール語で「カポックの木の森」を意味する prey kor{prey = 森、kor = カポックの木)の翻訳語とされる}に由来するというものである。なお、クメール語の prey kor という言葉は前述したクメール語名のプレイノコールと混同すべきでない(kor はクメール語でカポックの木を意味する言葉であり、ノコールは「街、土地」という原義をもつサンスクリット語に由来するクメール語の言葉である)。
このクメール語語源説はベトナム人がこの地域に定住する前からクメール人がいたという背景を考えるとなかなか興味深いものではある。しかし、この説は、クメール語の prey とベトナム語の“Sài”という2つの言葉が音声学的に全く異なるように見えることからすると、前者からどのようにして後者が導かれたのかという説明が完全に抜けている。
・広東語語源説
さらに少数説を唱えるのが、20世紀初期のベトナム人学者である Vương Hồng Sển である。その説によると、Sài Gòn の由来は広東語の名前で、サイゴンの華人居住区であるチョロン(クオッゥグーでは Chợ Lớn)にあるという。広東語の(元々の)都市名であるチョロンは、堤防を意味する「タイ・ゴン」(堤岸)である。この説は「サイゴン」が「タイ・ゴン」に由来するのは自明であるという。
○現在の市名の由来
現在のベトナム共産党政府が、その指導者の名前であるホー・チ・ミンに因み、1975年4月30日に南ベトナムのサイゴン陥落後の1975年5月1日に、市名をサイゴン市からホーチミン市に改名した。ベトナム語の公式名は、Thành phố Hồ Chí Minh であり、TPHCM と省略されることも多い。なお "thành phố" (略 TP)は漢語「城舗」で、「市、都市」を意味する。英語ではHo Chi Minh City と訳されていて、HCMC と省略され、フランス語ではHô Chi Minh Ville(アクサンシルコンフレックスは省略されることもある)と訳されていて、HCMV と省略される。
なお、サイゴンという旧名は、特に非公式の文脈で、今でもベトナム人によって広く使われている。例えば、ベトナム統一鉄道のターミナル駅は「サイゴン駅」、タンソンニャット国際空港のIATAコードは SGN のまま変わっていない。ベトナムの有名なビール商品名であるビア・サイゴンをはじめ、多くの企業名や本の題名でも旧名は使われている。一般的に「サイゴン」という言葉はホーチミン市の市街区のみを指す。「サイゴン」という単語は、ハノイを含むベトナム全国の商店の看板で見ることができる。「サイゴン風」や「サイゴン流」といった言葉は、小じゃれた雰囲気やモダンさといった意味を暗示するために用いられている。また、歴史的背景から、難民となった国外のベトナム人によってもしばしば「リトルサイゴン」と、旧名が使われている。

参照:Wikipedia「ホーチミン市

2013/12/10 15:07 | Comments(0) | ホーチミン市
ホーチミン市とは
ホーチミン市(越:Thành phố Hồ Chí Minh/城舗胡志明)とは、ベトナム社会主義共和国最大の経済都市。東南アジア有数の世界都市でもある[1]。
人物のホー・チ・ミンと区別するため、通常はホーチミン市またはホーチミン・シティ(略称:HCMC)と呼ぶが、日本では観光地としての著名さからか、俗に「市」が省略される。旧名はサイゴン(越:Sài Gòn/柴棍、中:西貢)であり、現地では今なお「サイゴン」という表現が様々な場面で使われており、都市名としては「ホーチミン」よりも通じる。

参照:Wikipedia「ホーチミン市

2013/12/10 15:03 | Comments(0) | ホーチミン市

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